図解でわかる助っ人列伝

【図解でわかるプロ野球助っ人列伝】ブーマー・ウェルズ

「図解でわかるプロ野球助っ人列伝」
2回目は初回のバースと同じ1983年に来日し、数多くの打撃タイトルを獲得した、こちらもその名前を多くの人が知るレジェンド、「ブーマー・ウェルズ」です。

「プロ野球珍プレー・好プレー」を放送すると必ずと言っていいほどブーマーの乱闘シーンの映像が入りますし、芸人でもその名前をとったBOOMERというコンビがいるので、確かに多くの人がブーマーという名前だけは知っていますが、その成績もプロ野球歴代助っ人のトップクラスというべき実に素晴らしいものでした。

意外にも実は10年間も日本でプレーした、そんなブーマーの日本での野球人生について図解で紐解きましたのでご覧ください。ブーマーという豪快でパワフルなイメージからは見えてこない人間性にもフォーカスしました。
下に解説文も書いていますのでご覧いただくとより深くわかります。

【図解でわかるプロ野球助っ人列伝】ブーマー・ウェルズ


アメフト選手から「爆発男=ブーマー」へ

ブーマー・ウェルズ。本名はGregory DeWayne Wells。
ブーマーが本名じゃなんですね。そして200cm、100kgという数字的にわかりやすい体格。ですがブーマーの写真を見る限り、2mであの巨体なら100kg以上は確実にある気がしますが。

そして、まず最初にびっくりしたのが、元々はアメフトの選手だったんですね。大学からNFLドラフト16巡でニューヨーク・ジェッツに指名されたのですが、体重とパワー不足でNFLの選手となることはできなかったようです。あのブーマーが体重とパワー不足というのが信じられません。

その後、アマチュアFAというオフなどに行われるメジャーリーグの入団テストを受け、そこでスカウトの目に留まりマイナー契約を結びました。海外のアスリートって子供の頃から一つの競技だけじゃなくて他のスポーツもやったりしてますからね。ブーマーは大学でもアメフトと野球の他にバスケもやっていたそうです。

ここで、そのバッティングに注目が集まるわけです。ある時、彼の特大ホームランに驚いたファンが「ブーマー」、和訳すると「爆発男」だと呼ぶようになり、子供のファンも「ブーマー」というニックネームで呼ぶようになったのです。やがて試合実況の放送席や場内アナウンスも「ブーマー」と呼ぶようになりこれが定着していきました。

そんなブーマーの評判は海を越えて日本にも届きました。
1982年オフのハワイのウィンター・ミーティングで阪急ブレーブスが目を付けます。しかし、これは初回のバースの時にも書いたのですが、阪急はもともとバースに目を付けており阪神との間で契約金を巡って競り合いになったようです。しかし長打力がありながら三振が少ないという評価もあったのでバースから身を引いてブーマーの方を獲得し、1983年に阪急に入団しました。

そこで、登録名をニックネームの「ブーマー」と、「爆発男」というよりも「ブームを呼ぶ男」という期待を込めて「ブーマー」としました。

来日時からたちまち話題に

そんなブーマーは来日した瞬間から、その名の通り大きな話題を巻き起こします。

まず練習での場外ホームランを連発するわけです。それが近隣の民家に飛び込んで金魚鉢が壊れるとか、練習中は球場の近隣の商店のシャッターが閉まったとか、さらにはテレビのスポーツニュースでそれを見たお年寄りが、衝撃のあまり心臓発作で倒れてしまったなど、ウソかマコトかわからない話もありますが、それだけブーマーのバッティングは練習の時点でも話題となりました。

また当時のロッテの本拠地だった川崎球場で試合前の練習をしていたところ、その球場があまりにも古かったので試合は別の球場に移動して行うものだと考えていたようで、その後スタンドにお客さんが入ってきたので驚いたと言われています。正直、当時のパリーグは閑散としていましたからね。流しそうめんできるほど。ブーマーにとっては川崎球場をファームで使っている野球場だと思い込んでいたとしても納得です。

さて、このブーマー人気を当然球団側も見逃すはずがありません。
阪急の本拠地である西宮球場の左中間の最上段席を『ブーマー・ゾーン』と命名し、そこに飛び込んだホームランを見事キャッチしたお客さんには世界旅行をプレゼントするという企画と立てました。実施にキャッチした人がいたかは不明ですが。
またブーマーが場外ホームランを打ったら等身大の特大2メートルの『ブーマーパン』というパンをお客さん全員にプレゼントする、という企画もあったのですが、1年目の公式戦で場外ホームランは出なかったため企画倒れになったようです。つまりブーマーパンはいつ場外ホームランが出てもいいように事前にお客さんの数分作って球場に置いておいたということですかね??どうなったんでしょうね??

人気に違わぬ圧倒的な打撃成績

そして1年目のシーズンがスタートしました。しかしブーマーは当初から張り切りすぎたのかスライディングをした際に右手親指のつけ根を痛めるというアクシデントにも見舞われてしまい、打率こそ.307をマークしたもののホームランは17本に終わりました。また日本の野球にまだ対応しきれていなかったことと、膝を手術したばかりでオフのトレーニング不足も影響したということです。

しかし、そこからブーマーはピッチャーのクセや配球パターンを3冊のメモに記録するほど研究熱心となり、圧倒的な成績を残した2年目のシーズンを迎えるのです。

2年目の1984年は日本の野球にもすっかり慣れ、オフのトレーニングもしっかり積んで、打率.355、37本塁打、130打点という素晴らしい成績を残し三冠王を獲得します。助っ人選手で三冠王と言うとバースが頭に浮かびますが、このバースよりもブーマーの方が一年先に三冠王を獲得していたんですね。さらにパリーグのMVPを獲得して、阪急のリーグ優勝にも貢献。このことでメジャーからも契約の話があったようですが断ったようです

以下にブーマーの打撃成績を表にしました。赤字の部分がタイトルになります。
ちなみに最多安打は当時はタイトルとして規定がありませんでした。

年度安打本塁打打点打率
19831371762.304
198417137130.355
198517334122.327
198617342103.350
198717040119.331
1988981446.289
198916540124.322
199050731.307
19911392067.300
19921372697.271
NPB通算1413277901.317

タイトルと取っていない年でも本塁打、打点、打率の数字を見ると今であれば十分にタイトルが取れる成績です。それもそのはず、この当時は落合がまだロッテに在籍し1985〜86と2年連続三冠王を取ったりしています。いかにハイレベルな争いだったかがわかります。

10年間の日本での野球生活で打率3割以上を1年目からの5年連続を含む7回、打率.350以上を2回、30本塁打以上を5回、40本塁打以上を3回、100打点以上を5回記録と、まさに1980年代のパ・リーグを代表する選手だったのです。


また、そのパワーに関する記録もあります。
1988年の西武戦で渡辺久信から飛距離162mの場外ホームランを放ち、落下地点が確認されたホームランとしては日本最長記録となりました。今でも130mのホームランが出ればすごいと言われるので桁違いですね。さらに1989年の近鉄戦では、レフトスタンドを指差す「予告ホームラン」をして見事レフトスタンドにホームランを打ったこともありまる。この頃の助っ人は役者ですね。


さて、パワーに関するエピソードと言えばブーマーはこんな話も有名です。
1989年の対ダイエー戦。ホームランを放った門田博光をホームで出迎えた際に、ブーマーが勢いよくハイタッチしすぎて門田の右腕が脱臼してしまったのです。もちろん悪気はなかったブーマーもひどく落ち込んでしまいましたが次の日の日の試合では「門田の分も」とホームランを放ちました。

CM出演からセ・パの人気格差に不満も

そしてブーマーのもう一つ有名なシーンはあのデッドボールの乱闘ですが、何とその乱闘シーンを使ったCMも作られます。パスタイムという湿布薬のCMなのですが、試合中に投球が体に当たって激怒してピッチャーに突進する実際の試合の映像が流れたあと、セットの薬局に場面がかわり、ブーマーが駆け込んできて「パスタイム、クダサイ!」と店員に訴える、というものです。そんなシーンもCMに使われるくらいブーマーは人気だったんですね。

しかし、この人気という面でブーマーを悩ませることになります。
それはセ・リーグとの人気格差なんです。阪神のバースも当時CMに出ていましたが、出演料で何と10倍近い差があることを知りました。またスポーツメーカーに巨人のクロマティと同等のアドバイザリー料を求めた時も、「クロマティとあなたでは注目度において格段の差がある。あなたが巨人に入団するなら喜んで払う」と言われて断られてしまいました。
1990年代以降はイチローをはじめ、今ではマー君や大谷翔平など人気選手がパ・リーグに集まりましたが、当時の世間の目はパ・リーグに対しては地味なイメージを持っていたのです。

それでも、ブーマーは阪急で懸命にプレーを続けます。1988年には古傷の左ヒザ痛が再発して治療のため一旦は帰国しましたが手術はせず3週間後に日本に戻って試合に出ました。そこには、「自分をここまで育ててくれたのは阪急だし、阪急でプレーしたおかげで人気が出た。だから少しくらいヒザが痛くても休むとは言えない」という、球団に対する義理固さも持っていたのです。

その一方で1989年オフには巨人への移籍話が度々報じられ、巨人側が鹿取義隆を交換要員に上げてのトレード交渉を行うも、プラス水野雄仁を要求され、折り合いがつかず白紙になっっという出来事もありました。すでに落合が中日に移籍していたので、そりゃあ巨人も欲しがりますね。

引退そして日本で活躍できた要因

そんなブーマーも30代の後半に差し掛かると、少しずつ全盛期の成績から落ちはじめてきます。1992年に福岡ダイエーホークスに移籍すると、それでも38歳にして打点王を獲得したのですが、シーズン後半に絶不調に陥ったことと、年齢をネックにされこの年限りで解雇されました。38歳でも打点王のタイトルを取っていれば今のプロ野球なら他球団が手を伸ばすでしょう。そして、そのまま現役も引退しました。

実に合計10シーズンにおよぶ日本での通算打率.317は、4000打数以上では落合博満や長嶋茂雄を上回り、今でも右打者の通算最高打率です。

ちなみに最も対戦が楽しみだったのは、西武の東尾修とロッテの村田兆治だったようで、特に村田のことは「日本野球界最高のピッチャー」と絶賛していたとのことです。

引退後はオリックスの臨時打撃コーチを務め、現在は野球のエージェント、つまり代理人としてアメリカと日本の野球界の橋渡し役として活躍しています。


さて、そんなブーマーですが日本でこんなに素晴らしい活躍ができたのには理由があります。

まずは200cm、100kgの巨体なのでホームランを遠くまで飛ばす豪快さが売りだと思われてましたが、実は野球選手としては器用さと優れた選球眼を兼ね備えていました。そしてスイングも非常に柔らかくボールをバットに当てる技術が高いため三振が少なく、高い打率を残せたということなのです。
そして、来日一年目の時に思ったような成績が残せなかったのでピッチャーのクセや配球パターンをメモに記録した研究熱心さも大きな理由です。
さらには、バッティングだけではなくゴールデングラブ賞も2回獲得するほどの守備力の高さも兼ね備えていたのです。守備がうまくなる秘訣を問われると「自分が偉大な一塁手だ」と思ってフィールドに立つことだと答えたとのこと。


最後に、阪急に長く在籍し、優勝も経験できたブーマーはこんな言葉を残していましたのでご紹介します。

スーパースターがいるだけのチームが勝てないのは、絆が深くないからだ。野球のチームというのは工場のようなもので、みんながそれぞれの役割を果たすことが大事になる。そして、そのためには自分の役割を知るだけでなく、仲間がどんな役割を担っているのかを知ることも欠かせない。そうなればチームの絆は固く結ばれていくものなんだよ。


以上、「図解でわかるプロ野球助っ人列伝」ブーマー・ウェルズでした。

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