図解でわかる助っ人列伝

【図解でわかるプロ野球助っ人列伝】ランディ・バース

今回から「図解でわかるプロ野球助っ人列伝」をはじめます。


その肝心ともいえる初回、誰にスポットを当てようかと考えたところ、日本プロ野球史上最強の助っ人と呼ばれる「ランディ・バース」ならベストだと思ったので取り上げます。バースなら異論なしですね。

何といってもバースは阪神ファンだけでなく野球ファンなら誰もが知るレジェンド。
野球ファンじゃなくてもバースという名前くらいは聞いたことがあると思います。
「史上最強の助っ人」そして「神」さらには「バースの再来」という言葉が生まれるなど強烈なインパクトを残しました。

バース・掛布・岡田の3者連続甲子園バックスクリーンへのホームランで1985年の阪神を優勝に導き、さらにその年のシーズン打率.389という後のイチローすら達することができなかったプロ野球記録を叩き出したことが有名です。

しかし実は来日してすぐ結果を出せたわけではないのです。また阪神退団となったのにも大きな出来事がありました。


そんなバースの阪神在籍約6年間のヒストリーを図解で紐解きましたのでご覧ください。
下に解説文も書いていますのでご覧いただくとより深くわかります。

【図解でわかるプロ野球助っ人列伝】ランディ・バース

「ニューヨークからロサンゼルスまで飛ばす男」

本名はRandy William Bass。
正しい発音としては「バース」ではなく「バス」なのですが、乗り物のバスを思い出すために日本では「バース」と呼んだようです。
同じようにかつて巨人に「シコースキー」という投手がおりまして、これも本来の発音とは違うのですが、この件は各自で検索してみてください。

そんなバースですが、メジャーリーグ時代は各チームを転々としました。
バッティングに関しては「ニューヨークからロサンゼルスまで飛ばす男」と言われましたが、実は幼い頃に足を複雑骨折していたために全力疾走ができなかったようです。そのため守備で不安がありレギュラー獲得には至りませんでした。
全力疾走できなくてもメジャーリーガーになれるというのもすごい話ですが。

そして、そんなバースのバッティングに日本球界が注目します。
1984年オフに阪神がバースの獲得調査と交渉を進めます。しかし実は阪神だけじゃなくて阪急やヤクルトとも交渉を行っていたのです。
結果的に阪急はこちらも大活躍するブーマーを獲得し、ヤクルトはやはり守備面の不安から撤退したため阪神がバースを獲得する運びとなりました。
なので阪神じゃなかったら阪急かヤクルトだったかもしれないんですね。

来日〜解雇の危機

という形でバースは1984年のシーズンに来日しました。

バースの守備のポジションと言えばファーストなのですが、この当時、ファーストにはベテランの藤田平がいました。
そのため当初バースはライトで守っていました。しかし、やはり外野は全力疾走が求められるポジション。守備の不安も露呈し、肝心のバッティングも開幕から15打席連続無安打と当時の球団ワーストを記録して「ハズレ外人」みたいな評価でした。

しかも、球団はシーズン途中で先発ピッチャーの補強を検討し始めたのです。
この当時、外国人選手とは1チーム3名までしか契約できませんでした。今みたいに一軍登録じゃなくて契約自体が3名までです。
この1983年シーズンはバースの他にストローター、アレンという野手の計3名と契約していました。そのため誰かを解雇する必要が出てきました。
この時、どちらかと言えば評価が高かったのはバースよりも日本野球への対応力が高いとされたストローター。守備難のバースの方が解雇の候補でした。

しかし、ここで運はバースに味方します。
もう1人のアレンが怪我のため5月に2軍落ちし、続くストローターが自打球で左足を骨折したのです。となると1軍で出場できるのはバースだけ。
結局、解雇されたのは骨折したストローターで、バースは生き残りました。
その後、藤田平の年齢による衰えからバースがファーストにコンバートされ、打撃も本来の実力を取り戻し最終的に打率.288、35本塁打、82打点という成績を残しました。


続く1984年シーズンも打率.326という高成績を残しましたが、やはり守備の評価がネックとなりました。また夏場に負傷で離脱もあったためオフにまたも解雇の危機を迎えました。

しかし、ここでまた運がバースに味方します。
この年は監督が交代するタイミングで来季から指揮をとる吉田義男監督が、守備を差し引いても魅力のあるバッティングだということで球団に残留を強く進言しました。
この結果、またもバースは解雇されず残ったのです。
バッティングもさることながら、来日当時から何とか日本の野球に順応しようと努力していた姿勢や、人気も出ていたバースの人柄や人格を球団が評価したことも残留の大きな要因になっていました。

そして、満を持して1985年を迎えます。

神の降臨

1985年のクリーンナップは3番バース、4番掛布、5番岡田という強力打線が完成しました。それを強烈に印象づけたのは4月17日の対巨人戦、槙原寛己からの甲子園バックスクリーン3連発です。3者連続ホームランというのは後にも出てきますが、まず最初にこれを思い浮かべる人がほとんどでしょう。甲子園でしかも巨人戦、そして同じ場所に3発、さらにその年に優勝するという、そりゃあ記憶に残るお膳立てが整った出来事でした。

シーズンを終えて成績は打率.350、54本塁打、134打点という打撃3部門で極めてレベルの高い数字を叩き出して三冠王を獲得
また当時のホームラン記録は王貞治の55本。54本目を打った段階での残り2試合はいずれも巨人戦でした。ここで様々な思惑や駆け引きがあり結局新記録達成とはなりませんでしたがセ・リーグ初の外国人のホームラン王に輝きました。

もちろんバースだけじゃありません。4番掛布、5番岡田ともに3割30本100打点を超えており、この年の阪神自体がまさに「神ってた」という感じでした。

迎えた日本シリーズとは西武との対戦。
バースは第1戦から第3戦で3試合連続ホームランを放ち、何と不安視された守備でも大ファインプレーを見せるなど攻守に渡る大活躍で阪神を日本一に導きました。
そしてシーズンと日本シリーズの両方でMVPを獲得する快挙を達成したのです。


1986年は新しいストライクゾーンが導入されました。しかしスーパーバースにとって苦しんだのは春先だけ。
5月末に首位打者に立つとさらに調子を上げ、7月頭には4割に乗せるなど極めて高いレベルで数字を上下させつつ最終的に日本プロ野球記録を更新する打率.389でシーズンを終えました。イチローすら2000年シーズンの打率.387が最高でバースを抜くことができませんでした。まぁイチローは他の年もずば抜けてますが。
そして打率だけじゃなく47本塁打、109打点で堂々と2年連続の三冠王となりました。
同じく1985〜86シーズンでロッテの落合博満が2年連続三冠王となっており、両リーグでハイレベルな戦いが繰り広げられていましたね。
現在ではこんな選手が同時に2人も登場するなんてないですよね。

またシーズン中は7試合連続ホームランの日本タイ記録を作るなど、野球というエンターテインエントとしても楽しく熱狂的なものを見せてくれました。

球団批判と確執、そして解雇

そんなバースも1987年に入るとその状況は大きく変わります。

開幕前にバースと掛布が相次いで交通違反で検挙されました。また投手コーチ同時が選手への指導法を巡って対立するなど、チームに不穏な空気が立ち込めはじめたのです。その不安が的中するように阪神は最下位に沈みました。

バースの成績自体は打率.320、37本塁打、79打点という助っ人としては申し分ない成績でしたがタイトルなしの無冠。
また前年から囁かれていた吉田義男監督との確執がエスカレート。何と雑誌のインタビューで最下位で終わった吉田監督を批判してしまいます。そのため球団からペナルティとして罰金を科せられたのです。この罰金は最終的にうやむやになってしまい、実際には払われなかったようですが。


そして1988年、もはや野球どころではなくなります。

バースの長男が水頭症を患い、その医療費を巡って球団と対立しました。これはどういうことかと言いますと、バースが球団と結んだ契約の条項の中に、家族の疾病の際には球団が医療費を負担することが明記されていたのです。しかし、球団側は保険に入っていなかったため、多額の医療費を負担することを恐れました。そのためにバースを解雇することを選んだのです。

結果、シーズン途中の6月27日に解雇されました。この経緯については、退団後に発売されたバースの自伝でも述べられています。
なお、このバース退団後の7月19日、当時の阪神球団代表が東京都内のホテルで飛び降り自殺する事件が起きてしまいます。これは、バースの退団をめぐるトラブルで球団とバースの板挟みになったのではないかと報じられました。

バースというスーパーヒーローは球団に大きな闇を残しながらの退団となりました。

阪神を退団してもまだ身体的にも現役を続けられる34歳。メジャー3球団からオファーが届いたり、ヤクルトや中日、そして福岡に移転したばかりのダイエーホークス入りも報じられましたが、結局この1988年をもって現役生活を終えることを決断しました。

引退後は本業の農場経営の傍らで、何と巨人のスカウトを務めたり、母校の高校で女子ゴルフのコーチをしたり、さらにはオクラホマ州上院議員に立候補して当選し4期も務めるなど引退後も各方面で活動の場を広げています。

バースが日本で活躍できた要因

メジャーではレギュラーに定着できなかったバースが日本で活躍できた要因としては次の点があります。

まず、バースはメジャーのピッチャーの投げる速球が苦手で、まだ日本に150kmを超える速球投手が少なかったことが挙げられます。
次に、当時大洋ホエールズにいた長崎啓二選手を手本としたミートバッティングを独力で会得したようです。
「ニューヨークからロサンゼルスまで飛ばす男」が日本で活躍するためにプライドを捨ててミートバッティングを習得したのですね。
また同僚の掛布が浜風の強い甲子園対策として身に付けていた独特の流し打ちをバースに伝授したとも言われています。

そして何より、そんな風にプライドを捨てて日本の野球に順応しようと必死に努力していた姿勢を評価され、守備に不安があっても使われ続けたことがバースにとっての大きな飛躍の要因となったわけです。
やはり助っ人といえども、野球だけじゃなく人柄や人格で評価されたからこそ多くの阪神ファンや野球ファンに愛されたわけですね。


現在でも、阪神では新しく入ってきた外国人打者に対して期待を込めて「バースの再来」と呼びます。
それだけ引退して30年以上経った今でも“記録と記憶の両方に残る”助っ人として日本のプロ野球史にその名を刻んでいます。

以上、「図解でわかる日本プロ野球助っ人列伝」ランディ・バースでした。

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