図解でわかる助っ人列伝

【図解でわかるプロ野球助っ人列伝】ウォーレン・クロマティ

「図解でわかるプロ野球助っ人列伝」
第4回、強引ですが4番を務めるレジェンド助っ人はこの人でしょう。
1980年代の巨人にあって、そのキャラクターと実力で多くのファンに愛された「ウォーレン・クロマティ」です。

自分が子供の頃は毎日のように巨人戦がテレビで中継されていました。そこに映る選手は、原、篠塚、岡崎、中畑、桑田…名前を挙げればキリがないスーパースター揃いです。ましてや世界の王貞治が監督です。その中で助っ人としてひときわ目立っていたのがクロマティです。

クロマティの巨人での活躍は周知の通りですが、実はその前にメジャーで1000本安打を記録していたバリバリのメジャーリーガーだったことはあまり知られていません。バースやブーマー同様にメジャーでは活躍できず日本でしか脚光を浴びなかったイメージがありますが、実はメジャーの球団との争奪戦の末に巨人が獲得したのです。

そんな愛され者クロマティの日本での野球人生について図解で紐解きましたのでご覧ください。
下に解説文も書いていますのでご覧いただくとより深くわかります。

【図解でわかるプロ野球助っ人列伝】ウォーレン・クロマティ
【図解でわかるプロ野球助っ人列伝】ウォーレン・クロマティ


実績十分のメジャーリーガー、好条件で巨人獲得

クロマティは1953年アメリカのフロリダ州マイアミビーチで生まれました。出身地を知ればそのキャラクターには納得という感じですね。野球では早くから頭角を現していたようで、MLBドラフトでは高校時代から数えて計4度も指名されましたが、いずれもプロ入りには至りませんでした。

日本の感覚だと「ドラフトで4回も指名されるの!?」と思いますが、日本とメジャーではドラフトの制度が異なります。

日本のプロ野球ではドラフト会議で各球団が4~10人まで選手を指名し、ドラフト会議終了時点で合計120人の指名に達していない場合、引き続き球団の希望があれば育成選手の選択会議が行なわれます。なるほど4人以上は指名しないといけないんですね。「ウチは戦力十分なので3人で指名終了」はNGなのです。つまり全体合計で指名されるのは120人目安です。

これに対し、メジャーでは毎年30球団が40巡目まで指名し、1200人以上の選手がドラフトにかかります。これはMLBでは傘下のマイナーリーグが8段階に分かれており、メジャー選手を含めると約290人が各球団に所属しているため、それだけの選手を指名しても受け皿があるからです。
しかし指名されてもたくさんの契約金を受け取れるのは上位指名の選手だけ。高校生で下位で指名を受けた場合でも、プロには行かずに大学でプレーし数年後のドラフトでさらに上位で指名を狙うことでより高額の契約金を手にするという選択肢も残されています。
そう考えるとクロマティはかなり粘ったんですね。

そして1973年6月の二次ドラフト1巡目(全体5位)でモントリオール・エクスポズから指名されて晴れてプロ入りを果たします。そしてメジャー3年目の1977年頃からレギュラーに定着し、計9年間で1063安打を積み重ねました。そして1983年のオフにFA権を獲得します。

ここでサンフランシスコ・ジャイアンツなどのオファーがありましたが、そんなクロマティに目をつけたのが巨人です。年俸60万ドルで3年契約という他球団よりも図抜けて良い条件を提示し、同じジャイアンツでも、日本の読売ジャイアンツに移籍が決まりました。当時は日本のプロ野球チームがメジャーのチームにマネーゲームで対抗できる時代だったのです。

そのような過程を経てクロマティは巨人に入団します。

来日1年目から主軸として活躍、球団歴代最高打率を記録

1年目の1984年、巨人は王貞治新監督が就任。中距離打者であったが、広角に打ち分けるシュアな打撃は王監督からも「三割は確実にとれる」と絶賛。新生王巨人の目玉として期待されるとその声に応え35本塁打をマーク。1985年には打率3割を超え、クロマティは巨人の主軸として定着します。

そして迎えた3年目の1986年には、なんと打率.363という高打率を記録しました。普通なら首位打者を獲得できる打率です。しかし、そこに立ちはだかったのは日本のプロ野球における史上最強助っ人と呼び声の高い阪神のランディ・バースです。日本プロ野球歴代の最高記録である打率.389を記録したため、クロマティは首位打者を獲得できませんでした。ちなみにシーズン打率が.360以上を記録しながらも、首位打者になれなかったのは、現在までクロマティただ1人です。

さて、1988年には国内最初のドーム球場である東京ドームが完成しました。
その年のヤクルトとの開幕戦でクロマティは巨人の選手としては東京ドーム第1号となるホームランを放ちます。惜しくも本当の東京ドーム第1号は対戦相手であるヤクルトの助っ人デシンセイでした。この当時の巨人の4番バッターと言えば原辰徳ですが、不振だった原に代わり一時は4番を任されるなど好調を維持していましたが、6月の阪神戦で指にデッドボールを受けて骨折してしまったことで、残りのシーズンを棒に振ってしまいました。

しかし、ここでクロマティは自分に喝を入れるように、1989年は開幕前に「4割を打って引退する」と宣言します。すると開幕から長打を捨ててヒットを量産し、シーズン規定打席の403打席(当時は130試合制であったため規定打席数は試合数×3.1の403打席数)に到達した時点でなんと打率4割を超えていました。このシーズンは巨人が首位を独走状態だったこともあり、藤田元司監督がクロマティに休養を提案しました。ここから全部休んでも打率は残ったまま終えられますからね。しかしクロマティは出場することを選びました。結果として終盤は調子を維持することができず打率は.378まで下がりシーズンを終えました。

4割打者の誕生は幻となりましたが打率.378は巨人の球団歴代最高打率として堂々と首位打者と最高出塁率の二冠のタイトルを獲得。さらに20勝を挙げたチームメートの斎藤雅樹を抑えてMVPも受賞しました。

そして1990年、最終年を迎えます。開幕から調子が低く、7月まで打率.252で5本塁打という成績ながらクロマティ人気が高いことからオールスターにファン投票で選出されました。しかし例年のような成績を残すことができず、すでに37歳となっていたこともありシーズン終了後の翌1991年1月に巨人の退団が発表されました。

在籍7年でシーズン打率.360以上を2回も記録。他にはイチローと落合博満の2人だけという、合計3人しか達成していない素晴らしい記録です。

クロマティを語る数多くの武勇伝

さて、これまではクロマティの数字面での打撃成績をご紹介しましたが、皆さんのクロマティの印象はその個性の強いキャラクターですね。
それを物語るエピソードはグラウンド内外でいくつもありますのでご紹介しましょう。

頭部死球退場の翌日に決勝ホームラン

広島と優勝を争っていた1986年10月2日のヤクルト戦で頭部に死球を受けて倒れ、試合の行われていた神宮球場から近い慶應義塾大学病院へ運ばれました。今なら頭にデッドボールを受けて病院直行となればすぐに登録抹消して様子を見るのが普通です。

しかし当時はまだそういう時代でもなかったからですが、クロマティは病院を抜け出して翌日のヤクルト戦にベンチ入りします。ベンチ入りさせる巨人もアレですが。そして満塁の場面で代打で登場すると見事ホームランを放ち、ホームベースに到達した際に泣きながら王監督と抱き合いました。
これはクロマティの勝負強さを物語るエピソードですね。

敬遠の球をサヨナラタイムリー

もう一つ、バッティングに関するエピソードを。
1990年の広島戦で、二死二塁の場面で、相手ピッチャーがクロマティを敬遠するために外した投球に対して、なんとクロマティはバットを伸ばしてボールに当てると打球は外野の頭上を越えサヨナラヒットにしました。敬遠するということは勝負を左右する打席。普通の選手ではなかなかそんな失敗リスクのある賭けはできません。

失敗を恐れない強いメンタルとプロ野球というエンタメに対するサービス精神を持っている選手だかこそできる芸当です。これはのちに新庄もやったことですがクロマティと同様両者に共通することですね。

相手投手に顔面パンチの乱闘事件

続いては昔の助っ人にはあるあるの乱闘エピソードです。
1987年の対中日戦で、背中に死球を受けた際、クロマティは相手ピッチャーに帽子を取って謝るようジェスチャーも交えて要求したものの、ピッチャーがそれに応じなかったため、マウンド上に駆け寄りピッチャーの顔面に綺麗に右ストレートを入れると両軍入り乱れての大乱闘に。もちろんクロマティは退場処分となりましたが翌日のスポーツ新聞の一面を飾るなど有名な乱闘劇となりました。

CM出演、音楽活動などグラウンド外でも活躍

クロマティはグラウンド外でも活躍します。
当時のテレビCMや広告は野球選手が多く出演していた時代、そりゃあ巨人の人気者を広告が放っておきません。キリンラガービールのテレビCMや、ファミコンの野球ゲームのイメージキャラクターにも起用されました。ビールは大人、ファミコンは子供と、世代を問わずの人気者だった証拠です。

さらに趣味の音楽ではロックバンドを組んでドラムを担当し、なんと「夜のヒットスタジオ」に出演して演奏を披露し、しかもアルバムをリリースしてCDデビューまで果たしました。世の中はバブル真っ只中ですし、イケイケでユルユルの時代だからこそですね。今なら色んなところから怒られそうです。。

バンザイコールなど代名詞的なパフォーマンス

さらにはクロマティの代名詞的なパフォーマンスである外野スタンドの巨人ファンと共に万歳三唱する「バンザイコール」、拳を突き上げる派手なガッツポーズ、左打席での極端なクラウチングスタイルなど、当時の子供たちが野球選手のモノマネをする時は必ずこれらのクロマティの動きをしたものです。

巨人退団〜現役引退。現在も日米で人気を生かし活躍

巨人の退団後もクロマティは世間を騒がせます。
それは直後に「さらばサムライ野球」という本を出版したのですが、この内容が巨人の監督コーチ陣の理不尽さや傲慢さ、またチームメイト達の印象や評価を語っており批判的な面も思い切りズケズケ言っている暴露本の様相を呈していたため話題となりました。また日本のマスコミやファンの外国人への偏見がどれほどあるかなど、当時のプロ野球界の裏側が彼の視点から語られています。

日本を離れたものの現役へのこだわりは強く残り、1991年にクロマティはロイヤルズのキャンプに参加しメジャー復帰します。しかし活躍することなく8月に現役引退が報じられました。

🇺🇸メジャーリーグでは通算10年間で打率.281、1104安打、61本塁打を記録。
🇯🇵日本では巨人在籍7年間で通算打率.321、951安打、171本塁打、558打点。
巨人歴代最高シーズン打率.378も記録し、他にもベストナイン3回、オールスターゲーム出場3回。

日米で実に輝かしい成績を残しました。

現役引退後はアメリカ独立リーグのゴールデンベースボールリーグに参加する「ジャパン・サムライ・ベアーズ」初代監督に就任しましたが、ファンへの暴言や度重なる退場を理由に解雇されるなど相変わらずの強いキャラクター。さらにアメリカの衛星放送ヒストリーチャンネルの東京駐在特派員として番組に出演など活躍の場を広げます。
また2019年には古巣巨人の盟友である原監督からの要請で一軍公式戦に随時帯同。2020年シーズンはアドバイザーという肩書で古巣に恩返しをしました。
現在はYouTubeの公式チャンネル「クロマティチャンネル」を開設し、70歳近くなった今でも精力的に活動しています。


後年、クロマティは日本野球に溶け込み活躍できたことについて次のように語っています。

新しい環境で認められるには、自分の能力を見せつける前に、その環境で大切にされている価値観やマナーに適応することが必要だ。さらに、それらを”学ぶ姿勢”を見せることで異文化への敬意も伝わる。


以上、「図解でわかるプロ野球助っ人列伝」ウォーレン・クロマティでした。

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