ランニング

【体験談】運動音痴がフルマラソンを完走するまで

こんにちは。

今回は、自分がランニングを始めるようになり、フルマラソンを完走するまでの話をします。

自分は子供の頃から運動音痴で走ることに対するアレルギーもかなりありました。
高校の時など体育祭の200m走に出て全力で走った後に貧血になり医務室で寝てました。

しかし、社会人になって運動不足解消のためスポーツジムに入会したことから始まり、ひょんなことから(最近使わない表現…)フルマラソンに挑戦することになったのです。

これを読んでいただいた皆さんにとって、運動やランニングをするきっかけや、それ以外でも生活や人生の中で何かのヒントになってもらえれば幸いです。

目次

  1. 中学時代、バスケ部での走り込み生活
  2. 社会人になり運動不足と太ることへの恐怖が生まれる
  3. エクササイズの爽快感を覚えコンディション作りに目覚める
  4. 仕事でタレントのフルマラソン挑戦に強制便乗
  5. ノルマ計200キロ。実は意外と達成可能な目標を設定
  6. 沖縄の空気に触れながら楽しく走れた前半戦
  7. 膝の痛みに耐えながら気持ちで走った後半戦
  8. さいごに

中学時代、バスケ部での走り込み生活

冒頭にお話しした通り、自分は運動神経がありません。

小学校の時、ドッジボールではいつも最初の方にボールを当てられてすぐ外野に出ていました。人に当てた記憶などほとんどありません。
水泳教室とかも数回で辞めたりしていました。

小6で受けたスラムダンクの衝撃

そんな自分が小6の頃、週刊少年ジャンプでスラムダンクの連載が開始して衝撃を受けました。
バスケって格好いい・・・。そう、流川や仙道のプレーに憧れ中学に入って迷わずバスケ部に入部するも、時はマイケル・ジョーダンが現役バリバリで空前のバスケブーム。スラムダンク効果もあいまって部員数も他の部活に比べてとりわけ多かったのです。


そして、早速理想と現実のギャップにぶつかります。

小学生が考えるバスケの練習なんて、シュートやパスなどコート内で行うものだけだと思っています。まさにダンクしたさに入部した桜木花道と同じですね。

しかし実際に入部してみると、学校の周りを5キロ・10キロと走って持久力をつけたり、インターバル走といってダッシュを繰り返し行って瞬発的な走力をつけたりと、とにかく毎日走りこみました。
雨の日でも校舎の一階から屋上までダッシュで登り下りを繰り返していました。
テニス部とかほとんど走ってないのにな〜とか思いながら。

またバスケでは致命的なのですが、自分は成長期が来るのが中3の夏くらいとかなり遅く、身長も中3に入った時で160cm程度と小さかったのです。

でも毎日ガッツリ運動はしているので食事量は多く、身長のバランスが合わずにぽっちゃり体型となり脚が遅かったのです。学校の周りを走ってもすぐに周回遅れをとり、下校途中や他の部活の生徒から恥ずかしく見られているなぁと思っていたものです。

結局、多くの部員との競争に勝てず、レギュラーはおろかスタメン出場もできないまま終わってしまいました。

あの頃は空ばかり見上げてたなぁ

ということで、走ることはアレルギーになりました。

それから高校〜大学〜社会人になるまで、走るといったら体育祭や学校行事での数キロ程度のマラソン程度で、能動的に走るということとは無縁の生活を送ってきました。

社会人になり運動不足と太ることへのトラウマが生まれる

大学を卒業し、新卒で広告制作会社にコピーライターとして入社しました。

最初のうちは外部との打ち合わせも行かず、先輩ライターのアシスタント的な感じで朝から晩までパソコンと向かい合って指示通りのコピーを量産していました。

入社して3か月ほど経って夏を迎える頃、Tシャツ一枚で外出しようとしたに自分の姿を鏡でみて「このままではまた太っていく」と危機感を覚えました。

食事量は大学時代と変わってないのですが、当時は学校行って、バイト行って、遊びに行って、と一日中家にいた記憶がないくらい動き回っていた(動いていただけでアクティブとは違います)ので食べてもそれなりにエネルギー消費されていたのかなぁと思います。

また、遅れてやってきた成長期は高2頃まで続いたので、大学に入る頃には背丈と体重のバランスの取れた標準体型になったのですが、やはり中学時代のような太った自分に対する恐怖心がありました。

それに20代前半のモテたいさかり。
さらに当時は服もジャストサイズで身体のラインが際立つファッションが流行っていたのです。現在の若い人の間で主流のオーバーサイズで着るスタイルと真逆ですね。

このままではまずい!と意を決して渋谷センター街の裏にあるスポーツクラブに通い始めました。

自分に合っていたエクササイズに出会う

まず最初に、ボクササイズのプログラムがあったので参加しました。
参加者は両手にグローブを付け、インストラクターがミットを持って1人ずつまわってくるので、ミットめがけてパンチを放ちます。
しかし上半身だけでなく、足腰までしっかりと全身を使わないと「パァン!」といい音がでるパンチは放てません。

30分のレッスンが終わると床に汗の水たまりができるほど。そのうち毎回水たまりができるように全力でやりました。

自分との戦いを終えると何とも言えない心地よい感覚。もっともっとやっていたい気持ちになりました。

そこで初めて運動に対する爽快感を覚えました。

思えば部活だって好きで入部したのに、いつの間にか自分の中で義務になってしまっていた。しかし、今回は自分でずっと継続していきたいと思えるようになったのです。

今思えばバスケなどの球技はチームや相手があってこそですが、エクササイズやマラソンのように、ある程度個人レベルで完結できる運動が性に合っていたのかもしれません。
決して協調性がないわけではないのですが。(念のため)

エクササイズの爽快感を覚えコンディション作りに目覚める

ボクササイズのプログラムが終わって心身ともに温まった状態。
そこで、少しの休憩を挟んで身体が冷えないうちにランニングマシーンで走るようになりました。

全力で走る必要はありません。最初は時速7〜8kmくらいから始め、10分経つごとに1kmずつ増やしていって、きつくなったら少し遅くするなどスピードを調整しながら走りました。

スポーツクラブに通えたのは土日だけでしたが、2〜3か月くらい続けて慣れてくると、1時間かけて10kmくらいは走れるようになりました。ずっと運動から遠ざかっていた自分にとっては大変な進歩です。

身体を動かし始めてから脂肪が本格的に燃焼するようになるまで20分程度かかる、という話はよく聞きますね。

30分間のボクササイズ終わりであればすでに燃焼モードですが、ボクササイズに間に合わなかった時は「20分過ぎてからが本番」と言い聞かせながらランニングマシーンに向かっていました。

もちろん個人差はあるでしょうが、当時の自分はそれが運動時のモチベーションワードのようになっていました。

すると、普段の生活の中でも意識の変化が訪れます。

当時は独身で一人暮らしです。
まだサービス残業当たり前の時代、生活も不規則で外食中心。
ほとんど野菜は食べない生活でしたが、風邪をひくとスポーツクラブにも行けなくなるので、サラダを作ってしっかり野菜も摂るように心がけていくようになりました。

次の段階として、運動を続けるためのコンデション作りをすることに目覚めたのです。
そういう意識で自炊すると食後の満足感が外食とは質が違います。

結局スポーツクラブは10年近く通っていました。

空白期間もあったので安くない会費の対価に見合っていたかはわかりませんが、現在も体重管理をしたり食事や健康面に気を使う礎になっていることは確かです。

余談ですが、ある日ボクササイズに某メンズ誌(今は廃刊)の創刊号の取材スタッフが来ていて、レッスン後に声をかけられ取材を受けたコメントが載ったことがありました。イケメンになるためのエクササイズ的な内容だったと思いますが多少のモチベーションになりました。もっともボクササイズ自体が女性が多かったので消去法だと思いますが。

仕事でタレントのフルマラソン挑戦に半強制参加

それでは、ここからフルマラソン挑戦の話になります。

そのきっかけは仕事でした。

広告制作会社を辞めた後、芸能系の事務所でスタッフとして仕事をしていました。

そして2009年、とあるタレント2名が、沖縄の那覇市で毎年12月に行われる「NAHAマラソン」でフルマラソンに初挑戦したいということで、練習から本番まで動画で密着するという企画を立ち上げました。

しかし、本番のレースはどうやって撮るのかといういきなり根本的な問題が。

自転車や車での並走は当然NG。
いくつかの通過地点で待つという手もありますが、制作費もなく当日現地入りできるスタッフは自分含め2名。
それにいつ通過するかもわからず、撮れても一瞬だけなので撮れ高を考えるとNG。

ということで、
自分も参加しハンディカメラを持って撮りながら並走することとなりました。

スポーツクラブ通いと言っても屋内のランニングマシーンで10キロ程度。
42.195キロなど未開の地です。

ましてや普通に走るのも大変な上に、カメラで撮りながらというミッションも。
バッテリーなど荷物も背負って走ることになります。

自分で企画立てた仕事とはいえ参ったなぁと思いましたが、「フルマラソンに挑戦することなんて一生に一度あるかないか。たとえダメでも完走するためにできることはやろう!」と心に決めました。

ノルマ計200キロ。実は意外と達成可能な目標を設定

最初の屋外練習は、某スポーツメーカー主催の皇居外周のランニングプログラムに参加しました。

2009年当時はランニングブームの真っ只中。
皇居の周りは平日の夜でもたくさんの人が走っていました。
信号がなくノンストップで走ることができ、適度なアップダウンもあるため、初心者から上級者までランニング練習には最適な環境です。

ただランニング目的でなく普通の歩行者は完全に邪魔者扱いでしたが・・・。
あの流れの中に入るのはまるで初心者ドライバーが首都高に合流する感じでした。

もっと広いところで練習したかった

さて、インストラクター指導のもと、脚の動かし方や呼吸の方法など、長時間ランニングを続けられる走り方を教わりました。

また同じメーカーさんの原宿にあるフラッグショップにて、シューズやウェア選びもお手伝いいただきました。

普段スポーツジムで履いているシューズは自分で適当に選んだやつです。
店員さんからマラソンに適したシューズの機能や性能などの説明を受けながら、相棒となる一足を購入しました。
めちゃくちゃ軽くて感動したのを覚えてます。

シューズも揃え、あとはマシーンと家の近所のランニングを交えながら自己練習に励みました。

練習で合計200キロの目標設定

ここで、一つの目標を設定しました。
本番まであと3ヶ月。練習で合計200キロ走ろうと決めました。

200キロといっても、3か月あれば1回10キロを月6〜7回走れればクリアできる計算です。
こう考えると意外と達成可能な目標であることがわかりました。

スポーツクラブは土日限定の会員プランでしたが、仕事柄、土日の出勤もあったため全日通えるプランに変更し、仕事終わりにも走ることにしました。

走ったキロ数を手帳に書いて、まずは50キロ達成、次は100キロ達成、150キロ達成…と、ひとつひとつクリアしていきました。

ゴールは42.195キロ完走ですが、そのために目先の手が届く数字の目標を設定して1つ1つクリアしていくやり方は、仕事にも通じるゴール達成のための効果的なプロセスになりますね。

とはいえ素人ランナーです。

一番怖いのは無理をしすぎて怪我をして本番に走れなくなることです。
走っている途中に少しでも脚に異変を感じたら10キロに満たなくても中断したりと、コンディション調整には気を遣いました。

当時はお酒も我慢(控えめに)

そんなこんなで3か月なんてあっという間に経ちました。

200キロのノルマを達成し、そのおかげで身体も程よく絞れました。

そして迎えた本番。前日に沖縄入りし、いよいよ当日を迎えました。

沖縄の空気に触れながら楽しく走れた前半戦

前日入りして早く就寝したものの一睡もできませんでした。

「走りながらきちんと撮影できるだろうか」など不安なことが頭を巡って眠りを妨げ、朝になってしましました。

ウエアに着替えたり支度をすると共に緊張感も増してきて眠気と混ざりあう不思議な感覚。
そしてスタート地点の奥武山公園まで歩いて向かう途中、その目に飛び込んできた朝日がとても綺麗で眩しかったのが印象的でした。今でも自分の人生の中で一番印象に残っている朝日です。

そんな朝日に迎えられながら3万人もの参加ランナーが続々と集まってくる様は、いよいよ始まる緊迫感とワクワクが太陽と一緒に高まり昇っていく感じでした。

しっかりと足腰のストレッチをして、シューズの紐OK、カメラOK、気合いOK!


ーーそして迎えたスタート時刻の午前9時。

スターターを務めたプロゴルファー諸見里しのぶ選手の号砲のもと、一斉に走り始めました。
実際は3万人の集団が動くので最初の数100メートルは早歩きで行列についていく感じでしたが。

マラソンとしては高めの20℃でしたが一般ランナーとしては心地いい気温


市民マラソンの楽しみの一つは沿道の応援です。

特に沖縄という土地柄、大人数でエイサーを踊っていたり、三線で演奏しながら歌っていたり、ドラムセットで豪快に叩いて気合いを送っている(!?)人もいました。

また沿道からランナーにドリンクやバナナなどの軽食を出してくれるのも嬉しかったです。
沖縄だけに黒糖を配ってくれたのは適度な糖分補給にはよかったですね。

肝心の並走しての撮影の方は、タレントもタイムより完走することが第一なのでペースも遅く、インタビューを交えながらそれなりの撮れ高を稼げました。

何より沖縄の景色を自分も楽しみながら走り、2時間半くらいかけてハーフ地点まで無事に辿りつきました。おにぎりを食べながら少しの休憩タイム。

膝の痛みに耐え気持ちで走り抜いた後半戦

実は幸か不幸か、コースの事前チェックを行っていませんでした。

正直コースのマップを見ても沖縄の人間ではないためピンとこず。

しかし走り慣れているランナーは、コースのどこに起伏があるかを調べてペース配分を事前に考えるものです。

これは後から知ったのですが「NAHAマラソン」のコースはアップダウンが激しく、気温も20℃を超えるため完走率は70%程度と完走者の少ない大会なのです。
※東京マラソンは完走率が95%です。

今から思えば無知でよかったです。
それらを最初から知っていたら走る前からもっと不安に陥っていたかもしれません。


ハーフ地点で給水とおにぎり補給をしなっがら脚の確認。
少し筋肉が張ってはいるもののまだまだ大丈夫。

しかし後半に入ってからすぐに長い登りが続き、一気に膝にきました。
筋肉ではなく関節にくる痛みは一旦気になりだすともう不安は消えません。(スラムダンクでもあったようなフレーズ)

自分との戦いですが、この企画の主役はタレントなわけで、今回の出場にあたり色々とサポートしてくれた様々な人たちの顔が浮かんできて「スタッフの自分が死んでもリタイアはできない」という執念がだんだんとわいてきました。

それは一緒に入っているタレントも同じです。
自分と同じく2人ともフルマラソン初挑戦なので明らかに疲れが見られます。
もっとも後半の苦しそうな表情は使えず、撮れ高は前半で稼げたので、後半ほぼ走ることに専念できました。

とはいえ気合が入ってても膝は一歩ごとに激痛が走るわけで40キロを迎えた頃には、気力だけで這いつくばって進んでいる感じでした。

しかし、タレント2人も、同じペースであろう周りのランナーも苦しいんだ、みんな仲間なんだ、と自分に言い聞かせなから一歩ずつ前へ進みました。

ラスト2キロ弱のゴール地点に向かっては緩やかな下りが続くのですが、ダメージを受けている膝にとっては下り坂こそが最大の苦痛。

ちなみに
マラソンの最中に立ち止まって膝の曲げ伸ばしをしている人がいますが、あればNGです。深く曲げると余計に膝の腸脛靭帯を刺激して逆に痛みが加速しまいます。
膝は伸ばすだけのストレッチをしてください。

当時は上記を知らなかったので、途中で何度も曲げ伸ばしをしてしまいました。。

今回のフルマラソン挑戦企画が始まってから3か月。「この戦いがいよいよ終わる」と感慨深げにゴールのある運動場に入り、まずは自分がゴール。
そしてタレントのゴールシーンを待ち受けて撮り(立ってるだけでもツライです)、ようやくミッション完了!

自己タイムは【6時間3分】。初マラソン無事に完走しました。

運動が苦手だった自分でもフルマラソンは完走できる、ということを身をもって証明できました。

さいごに

完走後にさらなるミッションが。

自分だけ那覇からの最終便で東京に戻らないといけなかったのです。
歩くにしても生まれたての仔馬のような状態。
とは言え空港にも同じような人がたくさんいたので「みんなお疲れさま」と心から思いました。

共に戦い抜いたシューズ。自分が作った宝物ですね。

というわけで、中学生当時の自分がまさか将来フルマラソンを走るなどとは夢にも思ってなかったでしょう。そして、

「もう二度とフルマラソンは走るまい。」そう心に誓いました。

現在は天気のいい休日に近所を走る程度で(コロナ禍では街中を避けて)、再度フルマラソンを走りたいというわけでもありません。

ですが頻度は少なくても、健康のために、また自分のために、年齢がいくつになっても続けていきたい習慣です。

こんな自分でもフルマラソンを完走できたという、子供の頃はもちろん社会人になった時にさえ考えもしなかった経験とそれまでの経緯をお話ししたことで、これを読んでいただいた皆さんの生活や人生の中で何かのヒントになってもらえれば幸いです。


それから9年後、再度フルマラソンを走ることになろうとは・・・。
また別の機会でお話できればと思います。


長い内容となりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました!

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